
こんにちは、ラベンダーです。
20日、上皇后陛下は92歳のお誕生日を迎えられました。
上皇后美智子さまは、長い皇室の歴史の中でも初めて民間から嫁がれた皇太子妃。
宮内庁によりますと、92歳となった上皇后さまは、筋力低下防止のための軽い運動を日課とし、体調に大きな変化はなく、上皇さまと静かで穏やかな日々を過ごされているということです。
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上皇后さまは20日、92歳の誕生日を迎えられました。
宮内庁によりますと、92歳となった上皇后さまは、筋力低下防止のための軽い運動を日課とし、体調に大きな変化はなく、上皇さまと静かで穏やかな日々を過ごされているということです。
一方で、最近は高齢に伴う体力の低下により以前に比べ疲れやすくなることが多く、赤坂御用地内の散策で歩かれる距離が次第に短くなっているということです。
去年10月と今年5月には神奈川県の葉山御用邸で地元の人たちと和やかに交流しましたが、例年の那須御用邸や軽井沢での夏の静養は今年は暑さの影響を考慮して見送り、仙洞御所でゆっくりと過ごされたということです。
おすまいでは、新聞やテレビのニュースを通じて社会の出来事に触れ、災害や熊の出没、気候変動による農業・漁業への影響などが話題にのぼると共に、デフリンピックや冬季オリンピックでの日本人選手の活躍についても話されていたということです。
上皇后さまは以前より少なくなったものの、夜にピアノを演奏されることもあり、今年の春は仙洞御所で音楽仲間の演奏を鑑賞される機会があったということです。
2026年9月20日 日テレNEWS
上皇后陛下お誕生日行事


上皇后陛下のご近影(お誕生日に際し)
上皇后陛下のご近況について
上皇后さまは、今年、92歳をお迎えになります。
高齢に伴うご体力の低下により、以前に比べてお疲れやすくなることが多く、ご散策時にお歩きになる距離も次第に短くなっていらっしゃいますが、幸いご体調に大きな変化はなく、陛下と静かで穏やかな日々をお過ごしです。
心不全の診断指標であるBNP値は正常値を超える状態が続き、深部静脈血栓症は引き続き経過観察中です。
昨年10月と今年5月、陛下と葉山御用邸にご滞在になり、ご散策や居合わせた人々とのご交流をお楽しみになりました。例年の夏は那須御用邸、軽井沢町大日向でご静養になっていますが、今年は、7月下旬から東海地方や西日本で最高気温が40℃以上となる酷暑日が連日観測されたほか、全国各地で最高気温が35℃以上となる猛暑日やそれに迫る高温が続くなど、記録的な暑さとなったことから、お身体への影響も考慮して、御所でゆっくりお過ごしいただくことに致しました。
御所では、新聞やテレビのニュースを通して社会の出来事に触れられ、侍従から説明をお聴きになっています。地震や津波、各地の豪雨による被害や熊の出没による社会不安、気候変動による農業や漁業等への影響、昨年の夏季デフリンピック競技大会や今年のミラノ・コルティナ冬季オリンピックにおける日本選手団の活躍などが話題になっていました。
ご交流のあった人々からは、今も変わらず書状や書籍等が届けられています。ご支援になった団体等からは記念誌や機関誌が送られ、60年にわたるJICA海外協力隊の歩み、歌詞著作権をお譲りになった日本肢体不自由児協会による「ねむの木賞」の贈呈、日本看護協会や連盟発足50周年を迎える「日本いのちの電話」の活動、昭和62年の米国ご訪問時にお立ち寄りになった小説『若草物語』の舞台「オーチャードハウス」のその後の様子等が伝えられました。
音楽のお仲間からは、御所での演奏披露があったほか、コンサートのご案内や音楽CD等が寄せられました。中には草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティヴァルで一緒に演奏された海外音楽家からの心温まる書状もあり、音楽を通してのお関わりを懐かしく思われたご様子でした。
昨年暮れには、石川県立津幡高校の生徒たちが、学校創立100周年記念事業として、10年の歳月を費やして「玉小石」の養蚕を復活させ、地域の協力を得て作り上げた伝統の絹織物「牛首紬(うしくびつむぎ)」が届けられました。上皇后さまが古代絹織物の復元に最適とされる蚕「小石丸」を長く育てられ、伝統文化の継承にお力を貸されたことに着想を得たというこの事業に、上皇后さまは、紅葉山での御養蚕が思いがけない形で伝わったことに驚かれるとともに、生徒たちの長年にわたる熱心な取り組みに感心なさっていました。
今年は、上皇后さまが英訳され、朗読された詩人・永瀬清子さんの『降りつむ』を紹介するテレビ番組の放送や上皇后さまがお書きになった絵本「はじめてのやまのぼり」のウクライナ語への翻訳についてのお知らせもありました。
日課として、筋力低下防止のため、陛下とご一緒に御殿内をお歩きになり、軽いご運動をなさるほか、赤坂御用地や御所のお庭をご散策になります。その折に土筆を摘まれ、満開の桜や梅をご覧になり、薔薇花壇にお立ち寄りになりました。マンサク、セツブンソウ、フクジュソウ、ミツバツツジ、マイヒレン、ヒツジグサ、ユウスゲ、ヒマワリ、ハギ、オミナエシなど季節の草花もお楽しみになっています。
また、陛下とご一緒に、日中には日本や世界各地の自然や歴史、人々の生活の様子を伝えるテレビ番組を、夜には音楽番組や各種スポーツの国際試合などをご覧になります。
1月の阪神淡路大震災及び3月の東日本大震災の発生日並びに沖縄県慰霊の日、広島・長崎原爆の日、終戦記念日には陛下と黙祷され、終日、静かにお過ごしになりました。宮中祭祀が行われている間は陛下とお慎みになっています。
新年や上皇上皇后両陛下の誕生日、外国をご訪問になる前後などに、天皇皇后両陛下をはじめ秋篠宮皇嗣同妃両殿下、愛子内親王殿下、佳子内親王殿下、悠仁親王殿下ほか皇族方が御所にお見えになっていますが、お会いになることを楽しみになさっています。
お誕生日行事は、別紙のとおり、高齢になられたことを考慮して、昨年よりもやや簡素な形で、天皇皇后両陛下を始め皇族各殿下、元皇族及びご親族、宮内庁長官始め職員代表、参与等の祝賀をお受けになる予定です。
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「天皇皇后両陛下をはじめ秋篠宮ご夫妻、愛子さま、佳子さま、悠仁さまが、新年やお誕生日など、折々に仙洞御所にお見えになります。上皇さまと美智子さまはこのひと時を心から楽しみになさっているそうです」
こう宮内庁関係者が話すように、10月20日、美智子さまが92歳のお誕生日を迎えられた。ご家族と語らう時間を楽しみにされている美智子さまだが、周囲が案じているのがご健康の状態だ。
「10月上旬にも上皇さまと定期健診を宮内庁病院で受診されています。あくまで定期的な健診で、特段ご不調があったとは伺っておりません。高齢とあってお疲れになることも多く、赤坂御用地内を散策される距離も短くなっています。また心不全の診断指標であるBNP値は正常値よりも高い状態で、深部静脈血栓症の経過観察も続いています」(前出・宮内庁関係者)
今年5月、上皇さまと葉山御用邸を静養のため訪れ、地元の人々と交流された際にも、美智子さまにはこれまでとは異なるご様子があったという。皇室担当記者はその場面を振り返る。
「御用邸の裏手にある岬『小磯の鼻』を散策し、集まった近隣の住民らと交流されました。特に、生後間もない子供を抱いたお母さんに、優しくお声がけされていたのが印象に残っています。
ただ近年は美智子さまが上皇さまをお支えになる形で歩かれる場面が多かったのですが、この葉山でのご静養時には、上皇さまが美智子さまをお支えになるような形で歩いていらっしゃいました。
また以前は、一人でも国民の姿が見えれば、ご移動時に必ずお車の窓を開けてお手を振られていたのですが、葉山から仙洞御所に戻られた際、窓を開けずに正門に入られたのです。最近もお出かけの際、沿道に人がいても窓を開けられないことが増えています。
かつてはお召し列車に乗られた際にも、ずっと立たれて沿線の人々に手を振られていた上皇ご夫妻です。90歳を超え、体力的にもこれまでのようなお心配りが難しくなられたのかもしれません」
■ご体調が優れずとも不変のご覚悟で……
開けない車窓の異変――。
葉山でのご静養直前には、国技館での大相撲観戦が予定されていたが、お取りやめになっていた。さらに、例年足を運ばれていた軽井沢でのご静養も行われず、関係者の心配もいっそう募っていたと、上皇ご夫妻の知人は明かす。
「この夏前にも、上皇后さまのご体調が優れないとお聞きしました。横になられる時間も少しずつ長くなっているとも伺います。猛暑もあり心配していましたが、それ以後、穏やかにお過ごしになっているようで安心しています。やはりご高齢ですから、これまでどおりにいかないことも増えていらっしゃるのでしょう」
だが、約67年前のご成婚以来、つねに上皇さまをお支えし、“国民とともにある”皇室を築かれることに、ご自身の全力を注がれてきた美智子さま。そのご覚悟は、外出が激減しているなかでも揺るがないようだ。
「距離は短くなっても、御用地内のご散策は続けられていますし、御所内でのご歩行や、軽い運動といったルーティンも続けていらっしゃるそうです。上皇さまのご健康を守るという美智子さまのご覚悟は変わりなく、ご自身の体調が優れずとも、日々できることに全身全霊をもって臨んでいらっしゃるのです」(前出・宮内庁関係者)
上皇さまのご健康をケアされながら、国民を案じ、寄り添おうとされるご姿勢にも変わりはない。
今年9月、上皇さまの葬儀規模を大幅に縮小する方向で宮内庁が検討していると相次いで報じられた。皇室の葬儀「葬場殿の儀」を皇居・宮殿で行うなど、上皇さまの強いご意向が背景にあったとされる。元宮内庁職員で皇室解説者の山下晋司さんは次のように語る。
「この葬場殿の儀の場所を宮殿に変えるのであれば、国の儀式で政府が主催する大喪の礼の規模も縮小する方向で見直されることになるでしょう。
上皇陛下は、即位前の皇太子時代から象徴天皇はどうあるべきか、ずっと考えてこられました。皇室に受け継がれる“国民と苦楽を共にする”というあり方は、このたび示された御陵の縮小などを含む葬儀規模の縮小にも通じています。従来の皇室のしきたりはできるだけ変えず、国民や社会の負担を少しでも減らしたいというお気持ちが感じられます。
今も、上皇上皇后両陛下は自分たちのことで国民生活に大きな支障が出ないよう、常にお考えになっておられるでしょう」
どんなに体力が衰えようとも、満身創痍でも、ご自身の使命を果たされるため――。美智子さまが抱かれるご覚悟の炎は、開かない車窓の向こうでも燃えている。
2026年9月20日 女性自身
10月20日は、上皇后陛下の92歳のお誕生日である。
美智子さまは、長い皇室の歴史の中でも初めて民間から嫁がれた皇太子妃。ご成婚後、皇室の中でさまざまな軋轢が生じたのは周知の通りだ。
皇室ジャーナリストの故・松崎敏弥氏は、2006年、「皇太子ご成婚と『ミッチーいじめ』の真相」と題された記事を月刊誌「新潮45」(現在は休刊)に寄稿。ご結婚の経緯と皇室内での軋轢について記している。【前編】では同記事を再録。「美智子さまイジメ」の第一幕、第二幕について詳述した。【後編】では、美智子さまをもっとも追い詰めた事件と、香淳皇后とのご関係について深掘りする。
「上皇后陛下」92歳 実母が明かしていた「イジメの真相」
10月20日は、上皇后陛下の92歳のお誕生日である。昭和9(1934)年、後の日清製粉社長・正田英三郎氏と富美子さんの長女として生まれた美智子さまは、雙葉小学校、聖心女子中・高・大学を経て今から67年前の昭和34(1959)年、「テニスコートの恋」を実らせた上皇陛下(92)とご結婚された。
その「世紀のご成婚」は、国民の間に「ミッチーブーム」を巻き起こし、これを機にテレビが各家庭に一気に普及するなど、戦後日本を代表する社会現象のひとつとなった。しかし、その華々しさとは裏腹に、長い皇室の歴史上でも初めて“将来の皇后”が民間から迎えられるという“事件”は、当時の皇室にさまざまな軋轢を生んだのもまた事実である。
「日本一の旧家」に嫁がれた美智子さまは、さまざまな苦難に直面した。それを乗り越えられ、平成の御世では皇后、令和の御世では上皇后として、上皇陛下や皇室を支えられてきた。今年に入って5月、散策中に立ち止まって呼吸を整えられるなどお疲れのご様子が見られ、予定されていた大相撲観戦を取りやめになさることがあったものの、おおむねご体調は良好で、赤坂御用地にある仙洞御所で日々をお過ごしになられている。
皇室ジャーナリストの故・松崎敏弥氏は、2006年、「皇太子ご成婚と『ミッチーいじめ』の真相」と題された記事を月刊誌「新潮45」(現在は休刊)に寄稿。ご結婚の経緯と皇室内での軋轢について記している。
以下、それを再録し、上皇后陛下が92年の半生で“乗り越えられてきたもの”とは何だったのか、探ってみよう。
【前後編の前編】
(「新潮45」2006年3月号 皇室ジャーナリスト・松崎敏弥氏による記事 「皇太子ご成婚と『ミッチーいじめ』の真相」を一部編集の上、再録しました。文中の年齢、肩書き等は記事掲載当時のものです)
テニストーナメントでの出会い
皇太子明仁親王(現・上皇陛下、以下同)のお妃選びが本格化したのは、昭和28(1953)年の成人式からだった。その選考には、宮内庁長官の宇佐美毅、侍従長の三谷隆信、東宮職参与の小泉信三、東宮大夫の鈴木菊男、東宮侍従の黒木従達と、昭和天皇の意向で加わった前宮内庁長官の田島道治の6人があたり、秘密裏に進められた。当初は旧華族から候補者を選ぼうとしたが、ほどなく民間人にも範囲を広げ、宮内庁は聖心女子大、東京女子大、日本女子大、お茶の水女子大などに推薦を依頼したという。
昭和32(1957)年、皇太子は軽井沢で開かれたテニストーナメントで正田美智子に出会った。ダブルスで、外国人とペアを組んだ皇太子は、外国人少年とペアを組んでいた彼女と対戦したのである。これをきっかけに、皇太子のアプローチが始まった。美智子の父は日清製粉社長ではあるが、一介の民間人。「身分が違いすぎる」と何度も固辞したというが、翌年11月27日に婚約が正式に決定した。
この日の午後、皇居を訪れ記者会見に臨んだ正田美智子は、日本中を魅了したといっていい。
「……ご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げられる方というところに魅力を感じました」
清楚で明るく、初めての会見でも物怖じせずにはっきり自分の考えを述べられた様子は、ミッチーブームを生み出した。彼女はこの前年の3月に聖心女子大を卒業、花嫁修業に勤しんでいた。大学時代は学生自治会長を務め、成績は学内トップ、卒業式では総代に選ばれている。テニス部と合唱部に属し、テニスは関東学生ランキング第4位で、合唱部ではメゾソプラノのパートだった。皇太子妃に相応しい、非の打ち所のない女性だった。
手袋事件
しかし、世間がご結婚に向かって沸き立つ中、最初の美智子妃いじめが始まっていた。婚約会見で美智子さんは、Vネック7分袖の象牙色のドレスを着て、白い鳥羽根の輪の帽子を被り、ミンクのストールを手にしている。ところがドレスに合わせた手袋が手首と肘の中間までしかなく、肘が露わになっていた。
これに「手袋が短すぎる、肘まで隠れる手袋を着用するのが礼儀」と指摘する声が寄せられたのである。そして「だから由緒ある家柄の人でなくては」「作法の心得がない」という悪意ある言葉が加わり、旧皇族旧華族の間にさざなみのように広がっていったのだった。
もっともこの手袋は、東宮職が用意したものであった。かつていじめの記事を書いたとき、私は美智子妃の母・正田富美子さんに呼ばれたことがあった。浩宮(現・天皇陛下、以下同)が将来大きくなってこんなことがあったのか、と知るとき、誤解のないようにしておきたい、とその顛末を話してくれた。服装については、婚約会見の数日前に東宮に相談し、写真も撮って見せていたのだという。その際、黒木侍従から長い手袋を付けるのがマナーといわれ、それが手に入らなかったため、黒木侍従が探し、女官を通じて皇后陛下から借りたのだという。非難の的になったのは、その手袋だったのである。
カメラのフラッシュが…
いじめの第二幕は35(1960)年3月の浩宮出産直後のことである。
美智子妃が生後2週間余の浩宮を抱いて宮内庁病院から東宮仮御所に戻る際のこと。当然、病院の周辺では新聞のカメラマンがその姿をとらえようと待ち構えている。お二人の乗った車に次々にフラッシュが浴びせられたが、病院の玄関口を出たところで、車の窓がするすると開き、母子がはっきり見えるようになったのである。美智子妃は両手で浩宮を抱いていたから、同乗した東宮女官か運転手が気を利かして操作したとしか思えない。だが、これが一部から指弾されるのだ。
「わざわざ窓を開けてカメラマンに撮らせるのは常識に反する」
「赤ん坊にフラッシュを浴びさせるなんて」云々。
その3ヵ月後、赤坂御苑に新御所が完成して引っ越す際にも、同様の事件が起きた。新居に入る時、明仁親王と浩宮を抱いた美智子妃は玄関の少し前で車を降り、宮内庁職員らに出迎えられるようにして中に入った。周りには新聞のカメラマンたちがいた。彼らは子宝に恵まれ、幸せ溢れる若き母親の写真を撮った。だがそれが新聞に載るや、こんな電話が相次いで東宮職に掛かってきたという。
「自分の子を抱いたところを写真に撮らせるとはどういうことか」
「高貴な身分の女性はわが子を抱いたところを他人に見せたり、写真に撮らせたりしないはずです」
確かにそうした伝統はかつてあった。だがこれも美智子妃に非はない。幸せなご一家の様子を撮影したいという宮内庁記者クラブの要請に宮内庁が応じ、お膳立てしたものだったからだ。
宮中の伝統を変える
もっとも子育てに関しては、皇太子夫妻は宮中の伝統を大きく変えている。それまで天皇家や宮家では、子どもが生まれると、乳人(めのと)が授乳し、母が母乳で育てることはなかった。美智子妃はこれを改め、母乳で育てた。さらに皇太子は幼いうちに両親と別居して暮らすしきたりだったが、親子同居を貫いた。
子どもを抱いていただけでこんな中傷をされるのだから、こうした「宮中改革」でも相当の陰口が交わされたのは、想像に難くない。
【後編】では、美智子さまと香淳皇后との知られざるご関係について深掘りする。「手袋事件」や写真をめぐる騒動にも増して、もっとも上皇后陛下を追い詰めた事件とは何か――。
【前後編の前編】2026年10月20日デイリー新潮
姑・香淳皇后との“本当のご関係”とは
宮中聖書事件
だが美智子妃をもっとも追い詰めたのは、他の事件だった。これとその後の第2子流産によって、美智子妃は葉山で3ヵ月にわたってご静養されることになる。事件は「宮中聖書事件」と呼ばれている。
昭和37(1962)年、天皇家の次男・義宮(現・常陸宮殿下)の結婚に注目が集まっていたころの話である。天皇を囲む皇族の会で、天皇が何気なく「義坊はどういうお嫁さんがいい?」と尋ねたところ、「お義姉さまのような、ともに聖書を読める方がいい」と答えたのだという。義宮はこの時、クリスチャンであった侍従から影響を受けていた。だがこの文脈だと、義姉の感化と取れなくもない。神道の天皇家にあってこの発言は問題である。だがその批判の矢は義宮ではなく、美智子妃に向かった。
美智子妃は幼稚園と小学校は雙葉、中学から大学は聖心で一貫してカソリック系の学校で学んだ。だから美智子妃が影響を与えたというのは真実味があった。そしてこの話は、たとえば、次のように脚色されていくのである。
義宮の「お義姉さまとキリスト教の話ができてうれしい」という言葉に昭和天皇が激怒。美智子妃は宮中に呼ばれ叱責を受けた。妃は絨毯にひれ伏して謝ったが、怒りは収まらなかった――。
美智子妃が2人目を懐妊、胞状奇胎で流産するのは翌年のことで、この時も「お一人でいいと思っているのか」「大事な皇子を流産するとは何事か」との声が寄せられる。そして精神的に追い詰められ、言葉を失い、葉山で静養するのである。
後に聖書事件について、東宮大夫だった鈴木菊男はこんなことを書いている。
「『陛下が妃殿下のことで激怒なさり、即刻呼びつけてお叱り云々』の噂が流され、その後何年にもわたりいくつかの誌面に取り上げられた(中略)私の退任後、またしてもその記事の引用が行われたが、それがこの度は陛下のお目にとまったのであろう。後日、侍従職を通じ『このようなことは、事実がないばかりでなく、心に思ったことさえなかった』と深いおいたわりに満ちたお言伝てが東宮職に届けられたと聞く」(『皇太子同妃両殿下ご結婚二十年記念写真集』時事通信社)
香淳皇后と美智子さま
こうした執拗ないじめの中心となっていたのは、学習院女子部の卒業生らが作る常磐会である。つまり元皇族や元華族の夫人たちだ。まだ当時は、皇太子妃は元皇族元華族の中から選ばれるのが当然と思われていた。
当時の常磐会会長は、秩父宮妃殿下の生母で東宮職参与だった松平信子。そこに宮内庁内部から東宮女官長の牧野純子(内大臣だった牧野伸顕の長男の嫁)や、皇居にいる女官長の保科武子などが同調した。そしてその後ろだてには香淳皇后がいたのである。
昭和天皇の侍従・入江相政の日記にはこうある。
「東宮様の御縁談について平民からとは怪しからんといふやうなことで皇后さまが勢津君様(筆者注:秩父宮妃)と喜久君様(同:高松宮妃)を招んでお訴へになつた由。この夏御殿場でも勢津、喜久に松平信子といふ顔ぶれで田島さん(同:宮内庁長官)に同じ趣旨のことをいはれた由」(昭和33(1958)年10月11日)
日記にはさらに皇后が美智子妃のお后教育に呉竹寮を使わせることに反対したり(33(1958)年12月9日)、ご成婚パレードで、自分の4頭立てより多い6頭立ての馬車を使うことに憤慨したり(34(1959)年3月12日)という話が出てくる。皇后から美智子妃への厳しい態度は以後も一貫しており、その後もいくつか事例が散見できる。
美智子さまの懊悩
美智子妃の懊悩も日記に出てくる。東宮御所を訪ねた入江に美智子妃はこう言ったというのである。
「皇后さまは一体どうお考へか、平民出身として以外に自分に何かお気に入らないことがあるか等、おたづね。夫々お答へして辞去」(42(1967)年11月13日)
もちろんすべては平民出身ということに起因している。だが、お妃選びに皇后がまったく関われなかったことが態度をより頑なにしているようにも思われる。それは常磐会も同じで、東宮職参与の松平信子は選考委員から漏れていた。
また昭和天皇のある侍従によれば、婚約期間にはこんな出来事もあった。
「婚約が決まってまもなく東宮仮御所に、美智子妃を紹介すると言って、殿下(現・上皇陛下)が、秩父宮妃と高松宮妃を招かれたことがあった。この時、殿下はこんなことをおっしゃった。結婚してしまうと皇太子妃となり立場が変わるからお教えいただくことができなくなる。だから今のうちに相談に乗っていろいろ教えてやってほしい、と。この言葉にお二人はカッとされてしまい、美智子妃には悪い結果となってしまった」
美智子妃いじめの実態は、密かに囁かれてはきたものの、昭和60(1985)年くらいまで表に出てくることはなかった。だから宮内庁が噂を打ち消したり、何らの対応を講じることもできなかった。美智子妃は長年、誤解や中傷の中で一人過ごさねばならなかったのである。それでもやってこられたのは、もちろんご本人の尽力もあるのだが、皇太子に幼いときから付き従い、お妃選びをし、その生涯を捧げるような側近が数々いたからではないかと思う。
【前後編の後編】2026年10月20日デイリー新潮


10月20日に、92歳のお誕生日を迎えられた上皇后美智子さま。ご高齢のためお出ましの機会は減ったが、上皇さまとお住まいの仙洞御所で過ごされている。天皇、皇后両陛下や愛子さまはそれぞれ、美智子さまのお誕生日のお祝いに仙洞御所を訪問される予定だ。
■会釈を交わした瞬間
2024年10月に右大腿骨上部を骨折し、手術を受けられた美智子さま。昨年、91歳のお誕生日には、骨折前の状態にほぼ回復されたと発表された。今年の新年一般参賀で、美智子さまがお手振りをされていなかったことや、愛子さまのお声がけに反応されていないように見えたことから、ご体調を心配する声が広がっていた。
そんななか、美智子さまと愛子さまが会釈を交わす瞬間があった。皇室番組の放送作家で、『素顔の美智子さま 11人が語る知られざるエピソード』(河出書房新社)の著者のつげのり子さんは、一般参賀でのおふたりの様子を振り返る。
「体調は心配されていましたが、美智子さまは今年の新年一般参賀に上皇さまとご一緒に3回お出ましになりました。午前の回で、愛子さまが美智子さまに会釈をされると、美智子さまも会釈を返されました。私の推察でしかないですが、美智子さまと愛子さまの間には、言葉を交わさなくても通じ合うものがあるといいますか、阿吽の呼吸のようなものがあるのだと感じた瞬間でした」
■美智子さまは「愛子と似ている」と
美智子さまご自身も、愛子さまと通じ合うものを感じられていた。08年のお誕生日に際して発表された文書で、こう述べられている。
「この頃愛子と一緒にいて、もしかしたら愛子と私は物事や事柄のおかしさの感じ方が割合と似ているのかもしれないと思うことがあります。周囲の人の一寸した言葉の表現や、話している語の響きなど、『これは面白がっているな』と思ってそっと見ると、あちらも笑いを含んだ目をこちらに向けていて、そのような時、とても幸せな気持ちになります」(「皇后陛下お誕生日に際し」(平成20年〈08年〉)より抜粋)
同じ言葉の表現や響きにおかしさを感じ、そっと見ると、相手も笑いを含んだ目を向けている。そんな一瞬に、おふたりの親密な関係が浮かぶ。
つげさんは、美智子さまのこの言葉を知り、おふたりのもう一つの“共通点”に気づいたという。それは、歌に込められた感性だった。
「美智子さまは、歌集を出されるほど和歌をよむ才能がありますが、愛子さまが初めて歌を披露されたのは、22年の歌会始のとき。その歌の壮大なスケール感が、美智子さまに通ずるものがありました」
英国の学び舎に立つ時迎へ開かれそむる世界への窓
愛子さまの初めての歌は、学習院女子高等科2年生の夏休みに、英国の私立学校イートン校の「イートン・サマースクール」に約3週間参加されたときの気持ちを詠まれたもの。歴史を感じさせる建物を前に、ここから世界が広がるという英国滞在への期待感を歌ったものだった。
■「窓」と「門」、世界を見つめる歌
この歌を目にしたとき、つげさんは、美智子さまが過去に詠まれた歌をすぐに思い浮かべたという。美智子さまの御歌集『瀬音』に収められている、1989年、ベルリンの壁が崩壊した年に詠まれた歌だった。
われらこの秋を記憶せむ朝の日にブランデンブルグ門明(あか)るかりしを
「ドイツ分断の象徴だったブランデンブルグ門という言葉をしっかり入れ、世界を視野に入れたスケールの壮大さが非常に深く伝わってくる歌。愛子さまの初めての歌を見たときに、この美智子さまの歌を思い出しました。世界への開かれた期待だったり、希望だったり、おふたりがお持ちの前向きな気持ちというのは、すごく似た感性だと思いました」
愛子さまの歌に詠まれた、世界へ開かれる「窓」。美智子さまの歌に詠まれた、ベルリンの壁が崩壊した年の朝の「門」。時代も場所も異なる二首に、その先に広がる世界を見つめる前向きなまなざしが重なる。
■選んだ道、選ばなかった道
もう一首ある。愛子さまは、2025年の歌会始に寄せられた歌に、学習院大学卒業の日のことを詠まれた。
我が友とふたたび会はむその日まで追ひかけてゆくそれぞれの夢
大学を卒業し、愛子さまは日本赤十字社に就職された。ご学友たちもそれぞれの道に進み、夢に向かって歩んでいる。再び会える日を楽しみにしながら、それぞれの夢を追いかけようという思いを詠まれた歌だった。
つげさんがこの歌から連想したのは、美智子さまが皇后時代に、自らが選ばなかった人生の道に思いをはせて詠まれた歌だった。
かの時に我がとらざりし分去(わかさ)れの片への道はいづこ行きけむ
「皇后陛下としての人生を振り返って、自分の選ばなかった道を“片への道”と表現され、そちらに進んでいたらどんな人生になったのだろうという思いを込めた歌です。美智子さまと愛子さまは、それぞれの人生で立たれている場面は違えども、おふたりの歌には、夢のありかを見つめようとされている視点が非常に共鳴していて、改めて似た感性をお持ちなのだと感じました」
一方は、友人たちとそれぞれの夢を追いかけていく若き日の歌。もう一方は、人生を振り返り、選ばなかった道を見つめる歌。立っている場所も人生の時点も異なるからこそ、その先にある道へまなざしを向けるおふたりの“似た感性”が、いっそう鮮やかに浮かび上がる。
かつて、美智子さまは「祖母として幼い者と接する喜びには、親として味わったものとも違う特別のものがある」とも述べられている。物事のおかしさに同時に気づき、そっと目を合わせる。日常の小さな笑いから、世界へ開かれる窓、歴史の転換点に立つ門、それぞれの夢へ続く道まで。美智子さまが愛子さまとの間に見いだした“似ている”感性は、おふたりの間で静かに響き合っている。
2026年9月20日 (AERA編集部・太田裕子)



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