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秋篠宮皇嗣妃殿下お誕生日(令和8年)

こんにちはラベンダーです

秋篠宮妃の紀子さまは、60歳=還暦の誕生日を迎えられました。

宮内記者会の質問への文書回答では、還暦にあたり、「これまでの積み重ねのもと、天皇、皇后両陛下をお支えしながら一つ一つのお役目を大切に果たしていくことができましたらと思っております」と抱負をつづられた。

情報はこの後も、随時更新されます

目次

ニュース動画

佳子さまと悠仁さまを「心強く思いながら、見守っています」 皇室典範改正に「事実として受け止めている」

秋篠宮妃紀子さまは、11日、還暦を迎えられました。

紀子さまは、60歳の誕生日に際し、宮内記者会からの質問に文書で回答されました。

還暦にあたっては「今というときを大切にし、これからも学びつつ、つながりを紡いでいくこと、また新たなことにも取り組むことができましたら」と抱負をつづり、「これからの世の中を担っていく、若い人たちの活躍にエールを送ることにも努めていきたい、という思いを強く持つようになりました」と今の心情を記されました。

また親子での公的な活動では、佳子さまや悠仁さまの意見を聞き、学ぶことや教えられることもあると明かし、佳子さまと悠仁さまがお二人での活動に臨む前によく話し合っている様子を「心強く思いながら、見守っています」とつづられました。

二十歳になった悠仁さまについては「赤坂に戻ってきたときには、生き生きとした表情でつくばでの様子を話してくれる」とした上で、周囲に支えられ経験を重ねていることに感謝を記されました。

一方、皇室典範の改正については、「事実として受け止めている」とし、「佳子や悠仁には改正されたことを話しました」「子どもたちの幸せを願いながら、見守っていきたい」と述べるにとどめられました。

2026年9月11日 日テレNEWS

紀子さま還暦60歳に 皇室典範改正「子の幸せ願う」 皇室での長い歩み振り返り

秋篠宮妃紀子さまが11日、60歳の誕生日を迎え、文章で感想を寄せられました。皇室典範が改正されたことに触れ、佳子さまや悠仁さまの幸せを願われました。

紀子さまは誕生日にあたって寄せた文章の中で、23歳で結婚して皇室に入って以降の暮らしについて振り返られました。

「結婚した頃は、初めてのことばかりで無我夢中ですごしたように思います。皇族として、宮中における諸行事をはじめ、都内や遠出をしての式典への出席、さらに外国を訪れたり、海外からのお客さまをお迎えしたりと緊張の連続でしたが、宮さまがそばにいらしてくださり、いざというときにサポートしていただいたこともあり、心強かったことを覚えております」

さらに、この一年、日本各地に足を運んだことや今年8月にパラグアイを公式訪問された感想を記した紀子さまは、次女・佳子さまや長男・悠仁さまと一緒に公的な活動に励んできたことについて、次のようにつづられました。

「親子で活動することの意義ですが、同じ場所で経験を共有し、お互いに感じたことを伝え話し合うことによって、新たな気づきがあり、それぞれの活動への向き合い方を深めていくヒントを得ることができるのではないかと思います。また、それぞれが単独で務めているときに経験したことを、家族の中で伝えたり、話し合ったりすることも、意義があるように思います。佳子や悠仁の意見を聞いていると、親の私たちが学んだり、教えられたりすることもあります。佳子と悠仁が2人で仕事をすることもあり、そのときはよく話し合っているようです。そのような2人の様子を心強く思いながら、見守っています」

去年、成年式にのぞまれた悠仁さまについては「つくばでは、一人の学生として大学での学びや課外活動に取り組み、赤坂に戻ってきたときには、生き生きとした表情でつくばでの様子を話してくれ、充実した生活を送っているように思います」としました。

そして、今年7月に改正皇室典範が成立したことについては「事実として受け止めております。佳子や悠仁には改正されたことを話しました。将来にわたって子どもたちの幸せを願いながら、見守っていきたいと思います」と締めくくられました。

2026年9月11日 TBS NEWS DIG

秋篠宮皇嗣妃殿下のお誕生日に際してのご近影

<写真>

https://www.kunaicho.go.jp/watch/gokinkyo/gokinkyo03/r08-0911-ph.html

<ビデオ>

https://www.kunaicho.go.jp/watch/gokinkyo/gokinkyo03/r08-0911-mov.html

(いずれも宮内庁公式)

宮内記者会の質問に対する文書ご回答

問1 還暦を迎えるにあたってのご感想と、ご結婚から36年余りを振り返って皇族として印象に残っている出来事をお聞かせください。この1年のご活動のなかで印象に残った出来事についても合わせてご紹介ください。秋篠宮家の活動は多岐にわたりますが、ご自身やご家族の健康について、どのように気を配られていますか。今後の抱負についてもお教えください。

ご質問にお答えする前に、最近頻発している自然災害に関してふれさせていただきます。7月下旬に熊本で大きな地震があり、その後も国内各地で豪雨による災害が発生しています。災害により亡くなられた方々に心から哀悼の意を表しますとともに、被災された方々にお見舞い申し上げます。

まだ暑さも残り、不安定な天気が続くなか、被災された方々と支援に当たられる方々のご体調を案じております。お一人お一人の命や健康が守られますことを心から願っております。

海外でも、南米で大規模な地震が相次いで発生し、アジアでは、地震や豪雨による被害や猛暑があり、さらに2週間ほど前には、ネパールと中国の国境付近で氷河の崩落に伴う未曾有の土石流が発生し、大きな被害があったと報じられています。ヨーロッパでは熱波による危険な暑さのなか、熱中症で亡くなる人が大勢いました。

こうした自然災害のニュースにふれるたび、影響を受けている多くの人々のことを心配しております。

<還暦を迎えるにあたっての感想>

再び午年がめぐり、還暦を迎えました。この長い歳月としつきには、家族や友人、出会う人々との思い出があり、支えられ、教えられ、学ぶことが多くありました。家族や友人とうれしいことや悲しいことを伝え語り合うこともあれば、静かに思いを深めることもあり、また手仕事の仲間と刺繍や機織りなどをすることも、私にとって大事な時間でした。

今日という日を迎えられましたことに感謝しながら、今というときを大切にし、これからも学びつつ、つながりを紡いでいくこと、また新たなことにも取り組むことができましたらと思っております。

<結婚から36年余りをふり返って皇族として印象に残っている出来事>

結婚した頃は、初めてのことばかりで無我夢中ですごしたように思います。皇族として、宮中における諸行事をはじめ、都内や遠出をしての式典への出席、さらに外国を訪れたり、海外からのお客さまをお迎えしたりと緊張の連続でしたが、宮さまがそばにいらしてくださり、いざというときにサポートしていただいたこともあり、心強かったことを覚えております。

結婚当初から、上皇上皇后両陛下には長くお導きをいただいており、天皇皇后両陛下や黒田清子さまには折々にお優しく親しくしていただき、深く感謝申し上げております。そしてこれまで多くの方々に支えられ、励まされてきたことを大変ありがたく思っております。

公的な務めについては、宮さまとご一緒におこなうもの、そして単独でおこなうものがあり、ご一緒に長年携わってきた行事として、例えば、都内ではブループラネット賞や地球環境大賞があり、地方では国民スポーツ大会や障害者スポーツ大会、全国高等学校総合文化祭などがございます。各行事を通してさまざまな活動にふれ、携わる関係者の思いや参加者の声を直接伺うなかで、その催しなどが持つ意義や新たな出会いの大切さを感じました。一つ一つが私にとりまして、学びの機会となりました。

宮さまとご一緒に、自然災害で被害を受けた場所を訪ね、被災された方々にお見舞いの気持ちを伝えることも大切にしてきました。また、戦没者を悼み、花を手向けたり、戦争を経験した方々のお話に耳を傾けたりすることもありました。先の戦争を体験していない世代として、当時のことを学び理解を深める機会をこれからも持ち続けることができましたら、と思っております。

単独で携わってきた公的な務めの中で印象深かったことのひとつは、結核予防会や母子愛育会の総裁として、また、お代替わり後は献血運動の推進の行事に携わる立場として、医療・公衆衛生や母子保健の関係者と協力しながら、さまざまな課題に取り組んできたことです。各地の結核予防婦人会、愛育班と保健師、赤十字奉仕団などの方々が人々のくらしや健康を気遣うお気持ち、活動にかける意気込みや情熱にふれることは、私が仕事に向き合うときの力になりました。

また、11年前の春より、京都の尼門跡寺院である大聖寺の「大聖寺文化・護友会」の名誉総裁を務めるようになりました。歴代の皇女様方が愛用されたお品、皇室ゆかりの宝物を総会の折などに拝見し、年中行事や茶道、香道などのお話をご門跡さまから伺う機会もあります。そうしたご縁を通じ、近年では奈良や京都の尼門跡寺院のご門跡さま方との交流もあり、歴史的建造物や美しいお庭、文化財を守るための専門家にお会いすることも増え、自分の世界が広がっていることをうれしく思っております。

36年前の結婚の儀の折に、京都の衣紋方の皆さまに装束の支度を手伝っていただいたことも印象に残っています。平成から令和へのお代替わりのとき、即位の礼、立皇嗣の礼でも、同じ衣紋方のお世話になりました。以後の宮中祭祀の殿上拝のときには、衣紋や結髪の技を受け継ぐ人たちの助けを得て支度をしています。このような方々のお支えによって祭祀という大切な務めをおこなうことができることをありがたく思います。

結婚後は、一年に詠む和歌のお題が示された「月次つきなみ御兼題ごけんだい」が届くようになり、和歌を詠み、短冊にしたためる詠進が生活の一部となりました。いただいたお題から自分の思いが自然にまとまることもあれば、そうでなく時間がかかるときが今でもあります。そのときどきに感じたことを筆に託し、気持ちを表現していく時間を、生活の中に持ち続けることができればと思っております。

この36年をふり返ると、家族とすごしてきた日々も懐かしく思い出されます。結婚して宮さまと2人で囲んでいた食卓が、翌年に眞子、続いて佳子、そして悠仁の誕生で、3人、4人、5人と増えてにぎやかになりました。

家族で葉山や那須、須崎の御用邸、御料牧場へ伺う機会もありました。現在の上皇上皇后両陛下や天皇皇后両陛下、敬宮さまとご一緒に海岸の散策など自然の中ですごす時間は思い出深いものでした。

家族との生活を送りつつ、さまざまな仕事に携わることには、挑戦も多く、体力も気力も求められることが度々あり、時間に追われていると感じることもありましたが、周囲に助けられ、いろいろと小さな工夫をしながらすごしてきました。子どもたちのお弁当や家族の小物類を作る折に、母が作ってくれた料理やお弁当、洋服などを思い出して参考にしたり、キャンプ好きな父が持参した簡易なテント(一人用)の中で、子どもたちが楽しいひとときをすごしたりと、両親にも支えてもらったことを、懐かしく思い出しています。家族一人ひとりが私の大切な心の支えになり、家族との生活のおかげで、多様な気づきや発見をすることができました。

子どもたちが幼かった頃は、小さな生き物を見つけたり、砂場で遊んだり、かくれんぼをしたりと、よく外遊びをしていました。屋内では、絵本を読んだり、工作をしたり、絵を描いたりしていました。幼稚園の送迎をしながら、子どもと語らう時間に成長を感じることもありました。子どもが小中高と進学し、保護者としての活動の幅が広がり、その時間も重みが増したように思います。家族で一緒に学校の行事に参加したり、保護者の方たちと一緒に小学校の図書室で子どもと本とをつなぐ活動をしたり、高校の校庭で花壇づくりをしたりしたことも、印象に残っています。

海外への訪問の際には、日本から離れる日数が増えると、子どもが留守番をする時間が長くなり、寂しい思いをしているのではと遠い国から心配することもありました。出発前には、留守中の楽しみになればと、訪問国についてのクイズ形式の絵本を作ることもありました。

そして今は子どもたちが成長し、再び宮さまと2人での食事、2人での散策をする機会が増えてきました。2人で美術展を鑑賞したり植物園を見学したりすることも楽しいひとときです。3人の子どもたちがそれぞれ自分らしい生活をおくっていることを頼もしく思い、それぞれの幸せを願いながら、これからの家族との時間も大切にしたいと思います。

<この1年で印象に残った出来事>

この1年の間、印象に残った出来事が幾つもありました。各地で出会った若い人たちの活躍する姿、東京国際ろう芸術祭と東京2025デフリンピック、地域の暮らしを支える方々や、生命と健康を守る方々との出会い、日本人移住90周年にあたり訪問したパラグアイと日本との絆。これらのほか、ふりかえって心に残った出来事をお伝えしたいと思います。

若い人たちの活躍

今年も中学生・高校生や大学生など、若い人たちのみずみずしい発想や熱意にふれる機会が度々ありました。積極的に新しいことを学び、問題意識をもって課題に取り組み、芸術やスポーツで活躍し、伝統芸能をしっかり受け継ぐなど、さまざまな形で活躍する若い人たちに出会うたびにエールを送り、私に何かできることがあったらと思いました。

昨年11月に訪れた東京都清瀬市では、「清瀬結核アンバサダー」として活動する中高生たちが、自分たちの暮らす地域に多くの結核療養所があった歴史を学んで考えたことを発表し、清瀬で感染症対策を学ぶ海外からの研修生とも積極的に英語で意見交換する姿に、結核予防会の仕事に携わる一人としてうれしさを覚えました。また、7月に鳥取県で開催された「第62回献血運動推進全国大会」では、献血の広報活動をおこなう高校生と大学生が、献血を分かりやすく紹介する四コマ漫画で協力を呼びかけており、心強く思いました。全国から高校生が参加する「高校生ボランティア・アワード」では、ごみ対策や自然保護、手話でのコミュニケーションづくり、高齢者の見守りや特殊詐欺被害防止、防災活動など、想像を超えた広範囲にわたる内容についてグループや個人のボランティアが発表をおこない、若い人たちの発想力と行動力を感じました。

今年の夏に秋田県で開催された「第50回全国高等学校総合文化祭」と近畿地方の6府県と北海道、福島県で開催された「令和8年度全国高等学校総合体育大会」では、高校生たちが豊かに表現する世界や、集中力を高めて競技に挑戦する様子に直接ふれることができました。大会の運営などにあたる高校生たちの言葉や、きびきびした動きも印象に残っています。

伝統芸能を継承する取り組みとして、鳥取県では、高校生が先輩の指導の下で練習する荒神神楽「八重垣能」の舞やお囃子、そして秋田県では「竿燈まつり」に向けて高校生たちが稽古する演技を見聞きする機会がありました。少子化が進む中で、地域で大切に守られてきた伝統芸能を次世代につなげようと努力を続ける人々の思いと、その文化に関心を持ち習得に励む若い世代の存在に励まされる思いでした。

東京国際ろう芸術祭と東京2025デフリンピック

昨年の11月には、ろうの方々が表現する豊かな芸術にふれ、世界からデフアスリートが参加したスポーツの大会を間近で観戦することができました。このように芸術とスポーツという2つの分野でろう者の活躍にふれることができたことも印象深い出来事でした。

具体的には、11月上旬、ろう者が中心の企画・運営による「手話のまち 東京国際ろう芸術祭」が開催され、想像をかきたてる演劇に時間を忘れ、飲食物や小物などを販売する「手話の市」では、手話での会話と買い物を共に楽しみました。若いろう者がスタッフとして活躍し、今後も3年に1度の開催を予定しているとのことで、次回を心待ちにしています。

また、11月中旬から開催された「第25回夏季デフリンピック競技大会 東京2025(東京2025デフリンピック)」では、77の国と地域からデフアスリートと支えるスタッフが日本に集まりました。水泳、バレーボールとオリエンテーリング競技を観戦し、若い選手たちやボランティアとして参加した筑波技術大学のろうの学生たちの活躍を頼もしく思いました。この大会をきっかけに、ろうの子どもたちがスポーツを楽しむ機会がさらに広がっていきましたらと思います。

地域の暮らしを支える方々、生命いのち と健康を守る方々にお会いして

結核予防会や母子愛育会での仕事などを通して、各地で地域の人々の健康と暮らしを支える医療関係者、行政関係者、さらにボランティア活動を続けている方々にお会いする機会が数多くあります。日頃の業務や活動に加えて、地震や豪雨などの被災地へいち早く赴き、支援活動を始めるお話や、自らも被災しながら支援者としての仕事を続けているお話を伺い、視野の広さや行動力、人々の心と身体を気遣う姿に感じ入ることも多くありました。

昨年の9月下旬、結核・呼吸器感染症予防週間の初日に札幌市を訪れ、北海道結核予防会が協力しておこなう住民健診の会場を見学しました。その折に、医師や看護師、診療放射線技師、事務スタッフがチームとなり、大型の検診車とともに広い道内の会場を巡回するための工夫をしていることや、冬の低温から検査機器を守るための管理の方法を考えていること、地域の気候や生活などを考慮しながら健診の時期や時間を決めていることをお聞きし、医療や保健の仕事に携わる方々の努力の一端にふれることができました。

また、一昨年に引き続き、結核予防会が協力しておこなっている地域住民の特定健診の機会に能登半島を訪ねました。昨年11月には震災後半年以上避難所として利用されていた七尾市矢田郷地区のコミュニティセンターを、今年の7月には震災後およそ一年間地元の高校の校舎として利用されていた輪島市の門前公民館を訪れて、それぞれ健診会場の設営のお手伝いをしたあと、健診に従事する関係者と懇談し、地域の人々の健康づくりに向けた思いについてお聞きしました。

被災から時が経ちましたが、人々の生活を再建することの難しさや心と身体の健康を保つ難しさに直面しながら、高齢者や子どもたちなど配慮の必要な人々の孤立をふせぎ、お互いに助け合うことのできるコミュニティづくりに励んでいる方にもお会いし、そうした活動の大切さを、訪ねるたびに感じています。

輪島市では、こうした課題に若い世代の人たちが取り組んでいます。その一つ、地元の小児科医たちの活動にふれる機会がありました。乳幼児やその母親が参加する集いで一緒にお食事をしたり、絵本を読んだりした後、小学生から高校生までがすごせる子どもの居場所を訪ねて、楽しく遊び、勉強する様子を見学しました。また、福岡市で始まった「一人一花運動」が能登半島にも広がっており、その一つ、輪島市門前地区の資料館前の花壇では、高齢者にとって花の世話をすることが家から出るきっかけになり、新しい出会いの場にもなっていると町おこしの若いリーダーから聞きました。地震で大きな被害を受けてから2年半以上が経ったいま、若い世代の積極的な活動により、地域のコミュニティづくりや復興の取り組みが進められている様子をとてもうれしく思いました。

地域や時間をこえて災害の経験と記憶を共有し、防災・減災を目指して熱心に活動する方々に出会う機会もありました。

昨年11月には、悠仁と一緒に伊豆大島を訪れ、平成25(2013)年の台風26号による土砂災害について語り部のお話を伺い、慰霊碑に供花をしました。島内の伊豆大島ミュージアム ジオノスでは、昭和61(1986)年の三原山の噴火を中心に、防災対策や防災教育のための展示も見学し、日本に数多くある火山と共に生活するために必要な知識や行動について考えさせられました。

今年4月に出席した、地域の子育て支援などをする愛育班員と保健師が東京に集う「愛育班員全国大会」では、愛育班員であり防災士でもある方から、赤ちゃんや子どものいる家族のための防災マニュアルや、家庭内での事故防止のパンフレットを作成し、配布する活動について発表を聞きました。また、奥能登を訪ねた際に、石川県助産師会の活動について伺ったときには、防災士の視点から、妊産婦に配慮した避難所の運営や地元のニーズにあった防災グッズの備えなどを工夫できることについてもお聞きしました。

別の訪問先で、津波避難タワーなど防災のための施設や、被災の記憶を伝える施設などを見学することもありました。こうしたこともあって、以前から関心を持っていた防災について理解を深めたい気持ちが強くなり、一緒に仕事をしている人たちと共に、防災の講習に参加しました。また、宮邸の防災用品をおさめている備品庫の中を宮さまとご一緒に点検し、古くなり入れ替えが必要な品目などについて職員と相談しました。

先週9月1日の防災の日には、私たちが暮らす赤坂の地域を所管する赤坂消防署と皇宮警察赤坂護衛署による赤坂御用地内の防災訓練がおこなわれました。職員とともに講習や消火訓練、AEDの使い方の訓練に参加し、起震車で地震の揺れを体験しました。この防災訓練には子どもたちが幼い頃に一緒に参加したこともありましたが、今回いらした消防署の方がそのことを覚えていて、懐かしそうに話してくださいました。今後も日頃から、家庭でも職場でも防災について話し合い、理解を深め、できることから行動に移していくことができればと考えております。

日本人移住90周年にあたり訪問したパラグアイと日本の絆

日本人移住90周年の機会に宮さまとご一緒にパラグアイを訪れました。私が訪れるのは初めてのことで、皆さまにあたたかく迎えていただきましたことを大変ありがたくうれしく思います。

現地では、日本とゆかりのある方々、日本人移住者や日系人の皆さまのさまざまなお話を伺いました。最初に日本人が移住したラ・コルメナを訪れ、90年の間に亡くなられた方々へ慰霊のお花を捧げた際には、この地に馴染んでいかれるまでのご苦労に思いを馳せ、互いに助け合いながら日系人社会を家族のように築いてこられたことに敬意を抱きました。日本人移住者と日系人がパラグアイで暮らす中でも、日本の文化を誇りに思い、日本との間に心の架け橋をかけ続けてくださったことも伝わってきました。

パラグアイ日本人移住90周年記念祝賀会では、アスンシオンの4つの学校の子どもたちが90周年の記念の曲「90年目の春」と唱歌「ふるさと」の合唱を披露してくださいました。パラグアイの子どもたちの中には合唱をするのが初めての人もいて、練習を繰り返しながら、声を合わせたと聞きました。当日はすばらしい歌声で、心が震えたことを思い出します。

また、移住地では、日本語学校の先生方が日本の文化や言葉を子どもたちに伝えようと努力をされていることを知り、胸が熱くなりました。日本語学校は、移住してからすぐに創られ、言葉と日本のことを学ぶ学校として活動を続けてきました。ラ・コルメナの学校に通う子どもたちからはお手紙をいただき、イグアスの学校で学ぶ子どもたちとは、宮さまはラパーチョ、私は桜を一緒に植樹しました。お会いした3人の校長先生が子どもたちに温かい眼差しを送りつつ、運動会やお祭りを催し、日本の心、感謝やおもてなしなどについても伝えていきたいとの熱い想いを語っていらしたことも、心動かされる出来事でした。

パラグアイの滞在中、伝統工芸であるニャンドゥティ、アオポイや陶芸、銀細工の制作の実演を見学し、伝統的な音楽のひとつであるグアラニアの演奏を鑑賞するなど、パラグアイの豊かな文化にふれ、活躍する職人や演奏家にお会いして貴重なお話を伺いました。訪問前にはじめた伝統のレース編み「ニャンドゥティ」をこれからも作り、パラグアイと日本で築かれてきた友情を一緒に紡いでいくことができればと思いました。

このほかにも、4月には国立看護大学校25周年記念式典に出席するため、創立時の式典でことばを述べて以来、久しぶりに大学校を訪ねました。その折に看護の歴史や教育について学び、看護師を志す方々とお話しする機会がありました。この25年間、専門的な知識と技術を学んだ数多くの卒業生が看護師、保健師として国内外の研究や実践の場で大きな役割を果たしていると聞いています。これからも看護師や保健師の活躍を期待しています。

また、4月に「がん患者さんが歌う 第九 チャリティーコンサート2026」を佳子と一緒に鑑賞し、7月には国指定難病である視神経脊髄炎の患者とそのご家族を支援するチャリティーコンサートを鑑賞し、それぞれ皆さまの歌声に感銘を受けました。このような催しを通して、疾病の当事者どうしのピアサポートのもつ力や、患者とその家族の日々の生活を支援すること、また疾病の治療の研究を進める医師や研究者を支援することの重要性が、多くの人々に伝わることを願っています。

最後になりますが、8月末にノルウェー前国王ハラルド5世陛下が崩御され、この度、ご葬儀に参列いたしました。今年の6月にホーコン皇太子殿下(当時)を宮邸にお迎えしたばかりでした。宮さまが英国にご滞在中にノルウェーを訪ねられた折、当時は皇太子でいらしたハラルド前国王陛下ご一家にあたたかく迎えていただいたお話を伺っており、とても残念に思っています。宮さまとともにお偲び申し上げております。

このように、さまざまな出来事があり、印象に残る1年でした。

<自分のことや家族の健康について、どのように気を配っているか>

自分や家族の健康についてお尋ねいただき、還暦を迎えてのこれからのことを改めて考える機会になりました。

私たち、そして子どもたちの年齢と成長に合わせて、生活のよいリズムや体調を整えられるように心がけができればと思いながら、すごしてきました。家族でお互いの健康を気遣うことも、自分自身の健康を心がけることも大事だと思っています。

子どもたちが小さかったときは、こちらが世話をする方でしたが、子どもたちが成長した今は、佳子や悠仁が私たちの体調を気にかけてくれます。この前のパラグアイの訪問のときも、出発前や帰国してからの体調を気遣ってくれました。

昨年、還暦を迎えた宮さまとご一緒に、食生活や体力作りに心を配るようになりました。薬膳のことを教えてくれる友人がいて食材を工夫したり、ラジオ体操を毎日すると体調が分かるという知人の話も参考にしてみようかしらと考えたりしています。2人で健康に気遣いながら過ごせたらと思い、散策したり、障害者スポーツ大会の折にいただいた手作りのストレッチ用の棒を使って体操したりして、体を整える時間をもつように意識しています。

引き続き家族と過ごす時間を大事にしながら、健康面にも気をつけていきたいと思っております。

<今後の抱負>

宮さまが還暦をお迎えになったときに、それまでの日々との連続性についてお話しになりました。この度、大きな節目の日を迎えましたが、これまでの積み重ねのもと、天皇皇后両陛下をお支えしながら、一つ一つのお役目を大切に果たしていく努力を続けることができましたら、と思っております。

令和5(2023)年の誕生日のときにお伝えしましたように、今後も、子どもから高齢者までの健やかな暮らしを願い、生命いのち の尊さについて考える時間を大切にし、未来を創る子どもたちに思いを馳せ、希望へとつながるような活動にも、関係者と一緒に携わっていきたいと考えております。

自然災害からの暮らしと心の復興に取り組み、妊産婦や子どもたちの居場所づくりなどに励まれる方々、さまざまな心のケアに携わる方々、これまでに知り合った方々とのつながりを大切に育んでいきたいと思っています。また、この数年、還暦を迎える年齢ということもあるからでしょうか、これからの世の中を担っていく、若い人たちの活躍にエールを送ることにも努めていきたい、という思いを強く持つようになりました。

自分自身もまだ知らないこと、新しく学ぶことが多くあるように思います。今年7月、滋賀県で扇子作りの工房を訪れた際に、扇子が完成するまで想像以上のたくさんの工程があり、各段階に関わる職人の思いが込められていることをはじめて知りました。

これからも新しく学ぶこと、学びを深めること、またクリエイティブな活動にも取り組むことができましたら、そして小さなことでも今できることをおこなえたらと思っております。

問2 この1年、佳子さまや悠仁さまとともに親子で公的活動に臨まれる機会が多くありました。お子さま方と公的活動に臨まれる意義や、お子さま方の公的活動でのご様子を教えて下さい。また悠仁さまが二十歳を迎えられた感想と、お子さま方の日常生活でのご様子も合わせてご紹介ください。現在米国で生活する小室眞子さんとのエピソードもお聞かせ下さい。

<佳子や悠仁との公的活動について>

この1年、親子で公的な活動に携わることが幾度もありました。

佳子とは、2人で遠方を訪問したり、都内の音楽会や美術展などを鑑賞したりする機会がありました。昨年10月には、「瀬戸内国際芸術祭2025」の関連で香川県を訪問して、芸術作品を鑑賞し、離島の子どもたちに本を届ける図書館船を見学したほか、芸術祭に携わるボランティア「こえび隊」や、子育て支援などの活動をする愛育班員と懇談しました。また、国立療養所大島青松園を訪ね、納骨堂で供花を、慰霊碑で拝礼をしました。そして、ハンセン病の歴史などについて説明を受け、大島青松園に暮らす方々からお話を伺いました。佳子はこうした行事の前に関連する書籍を読んだり展示を見学したりして準備を重ねました。真摯な中にも優しさや明るさをもっていろいろな場所を訪ね、行事に携わっているように思います。

悠仁とは、この1年に2回遠出する機会がありました。昨年11月には伊豆大島を訪れ、デフリンピックのオリエンテーリング競技を観戦し、若い日本の選手と手話も交えて懇談しました。また、平成25(2013)年の土砂災害の被災体験を語り部の方から伺い、慰霊碑に花を手向けました。椿油の製油所などを見学し、高齢者施設で皆さまと一緒に玉入れをする機会もありました。今年の3月には「世界スキーオリエンテーリング選手権大会2026」が開催された北海道留寿都村を訪れ、子ども向けのスキーオリエンテーリング体験会に参加したほか、子育て関連の施設では子どもたちのかるた遊びに加わりました。悠仁は、高齢の方々と親しくお話をし、年齢の近い若い選手や子どもたちと楽しそうに交流していました。

親子で活動することの意義ですが、同じ場所で経験を共有し、お互いに感じたことを伝え話し合うことによって、新たな気づきがあり、それぞれの活動への向き合い方を深めていくヒントを得ることができるのではないかと思います。また、それぞれが単独で務めているときに経験したことを、家族の中で伝えたり、話し合ったりすることも、意義があるように思います。佳子や悠仁の意見を聞いていると、親の私たちが学んだり、教えられたりすることもあります。

佳子と悠仁が2人で仕事をすることもあり、そのときはよく話し合っているようです。そのような2人の様子を心強く思いながら、見守っています。

<悠仁が二十歳を迎えた感想>

悠仁は9月6日に、二十歳の誕生日を迎えました。学生生活を送りながら、宮中での行事や公的な活動も少しずつ務めるようになりました。8月には広島を訪問し、広島平和都市記念碑で供花をするとともに、爆心地に近い本川小学校平和資料館を訪れ、被爆当時の様子を聞きました。そして「第19回日本スカウトジャンボリー」の大集会に出席し、初めてことばを述べました。周囲の方々に支えていただきながら、経験を重ねていることに感謝しています。

つくばでは、一人の学生として大学での学びや課外活動に取り組み、赤坂に戻ってきたときには、生き生きとした表情でつくばでの様子を話してくれ、充実した生活を送っているように思います。

<子どもたちの日常生活での様子>

小さいときは一緒にすごす時間が長く、一緒に遊んだり、幼稚園の送り迎えをしたり、学校行事に参加したり、家族旅行をしたりしました。だんだんと年齢が上がるにつれて、佳子も悠仁もそれぞれの生活スタイルをもつようになり、2人とも自分自身で考え行動する時間を大切にしながら、充実した日々を送っています。

<眞子とのエピソード>

先月パラグアイを訪れた際、日本人移住80年にあたり10年前に娘の眞子がパラグアイを訪れたときの足跡にふれる機会が度々ありました。例えば、移住地のイグアスでは、日本人会館の入り口に眞子が記念に植えた桜の花がきれいに咲いていることを、日本人会の方が笑顔でお話しくださいました。桜を大切に育ててくださっていること、眞子に会って嬉しかった、懐かしい、と当時の思い出を語ってくださったことも心に残りました。

庭の木香薔薇は今年もきれいに咲きました。今年は咲き終えてから、宮さまと一緒に手入れをして、アーチの形を整えました。昨年はあまり手入れができなかったので、来年は続けてできるようにと思っています。

問3 皇室典範が改正され、女性皇族が結婚後に皇室に残ることや、旧宮家から養子を皇室に迎えることが可能となりました。改正についてどのように受け止めていらっしゃいますか。佳子さまや悠仁さまにはどのように説明し、将来について話し合われているのかお聞かせ下さい。

皇室典範が改正されたことを事実として受け止めております。佳子や悠仁には改正されたことを話しました。将来にわたって子どもたちの幸せを願いながら、見守っていきたいと思います。

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「お互い、どんな点に惹かれたのでしょうか」の質問に…

「生物、例えば御所内で飼ってらっしゃるナマズやアヒルなどをかわいがっておられるお姿や、熱心に魚類を研究しているお姿に強く惹かれました。タイのお酒、メコンに誘われるまま、先生やお友達と語り合い、またギターを弾かれたりするご様子、そんなところに惹かれました」  皇室会議で秋篠宮さまと紀子さまの結婚が決まったのは1989年9月12日のことだ。その直後の記者会見で、「お互い、どんな点に惹かれたのでしょうか」と、記者から尋ねられた紀子さまは、少しはにかみながら、このように答えている。  一方で、秋篠宮さまは次のように話した。 「話をしていて楽しい人。また、どことなく愛きょうがあるというか……」 「付け加えると、(紀子さまは)非常に話題が豊富な方じゃないかと思っております」

学習院大学での出会い

 1985年5月、学習院大学法学部2年だった秋篠宮さまは、文学部に入学したばかりの紀子さまと大学構内の書店で初めて出会った。出会ってすぐ秋篠宮さまは、当時、家族で暮らしていた東宮御所に、紀子さまを招き、両親に紹介した。その後もしばしば、紀子さまは東宮御所を訪問し、上皇ご夫妻とテニスを楽しんだり、お茶の席を共にしている。

 上皇ご夫妻は、「キコちゃん」と親しく呼んで、とてもかわいがった。秋篠宮さまが小学校時代の友人らと、一緒に始めた大学サークル「自然文化研究会」に、紀子さまは入会した。二人は、全国各地を仲間たちとともに訪れ、愛を育んだ。

交差点でプロポーズ

 1986年6月26日、学習院大学近くの交差点で秋篠宮さまは、紀子さまにプロポーズした。初めて出会ってからわずか、一年余のことだった。

 そして、1990年6月29日、二人は結婚し、秋篠宮家を創立した。このとき、24歳だった秋篠宮さまは英国留学直後で、紀子さまは大学院生だった。

 結婚式当日の朝、紀子さまと家族は、学習院共同住宅にある自宅から階段で屋外に降りてきた。紀子さまはピンクのワンピース姿で、同じ色の帽子、胸には真珠のネックレスが輝いていた。宮内庁からの迎えの車に乗り込む紀子さまを、父親の学習院大学名誉教授、川嶋辰彦さん(故人)らが温かく見送った。

 結婚前には「その瞬間の気持ちを大切にし、そのときに何か伝える言葉があれば」と、語っていた辰彦さんだったが、紀子さまの手を握り、なかなかその手を放すことはなかった。

空前の“紀子さまフィーバー”

 婚約会見から結婚後にかけて、空前の「紀子さまフィーバー」が、全国各地で巻き起こった。

〈《婚約が決まってから、紀子さん人気はアイドル、いやそれ以上の国民的レベルに広がった。行く先々でカメラの放列が敷かれ、あのはにかむような紀子スマイルがますます恥じ入りそうにこぼれると、それがまた「カワイイーッ」となるのであった》〉

 結婚直後、「毎日グラフ臨時増刊 おめでとう礼宮・紀子さま」(1990年7月発行)は、このように綴った。さらには美容室で、髪をセットしてもらう様子や演奏会に家族で訪れた時の紀子さまのプライベート写真などが掲載されている。紀子さまは、どこへ行っても、過剰ともいえるマスコミ取材を受け、大勢の市民たちに取り囲まれた。

「3LDKのプリンセス」と呼ばれて

 それは、当時は珍しかった学生同士の恋愛結婚であったことや、学習院のアパートに家族で暮らしていたという親しみやすさが背景としてあるだろう。「3LDKのプリンセス」と呼ばれた紀子さまは、キャンパスで芽生えたラブストーリーの主人公として、日本中から熱い視線を浴びていた。

 その一方で、ご結婚によって紀子さまの生活は一変した。一躍時の人となり、一人で街を出歩くことはかなわなくなった。

「都心の書店で、書棚から自由に本を取り出して読んでみたい」

 結婚から1年ほど経った頃に紀子さまがそう希望したことがあったと、ある関係者が教えてくれた。車で移動される際には、窓越しに街の様子を注意深く眺めていたという。
「結婚していなければ、しんどかったでしょうね」

 皇室に嫁ぐという大きな変化を受け入れた紀子さまだが、秋篠宮さまにとってその結婚は、どのようなものだったのか。

「(秋篠宮さまは)将来、幸せな結婚ができるのかということも、大きな心配事だったように思います」

 秋篠宮さまをよく知る赤木攻・大阪外国語大学名誉教授はこのように語ったことがある。筆者のインタビューに対し「結婚していなければ、しんどかったでしょうね」と振り返り、こう語った。

〈「でも家庭をもち、一人じゃなく二人になった。そして家族が増えた。人生の悩みの一つが解決したことで、落ち着きや余裕が生まれた。お酒の量も減ったしね。お行儀もよくなられた。紀子さまは、とても気さくでユーモアのある方。(略)お父さんの川嶋辰彦先生の留学の関係で小さい頃に米国などで育っているので、考え方が欧米流というか、自由で柔軟です。ご夫妻で意見が違っても、最終的にはお二人でにこやかに『じゃあ、そうしましょう』となることが多い。紀子さまが生涯のパートナーで良かったと思います」(「週刊文春」2025年12月11日号)〉

 紀子さまの人生が再び大きく動くこととなるのは、結婚から16年後のことだ。(つづく)

美智子さまも「大層心配」…紀子さまは39歳、帝王切開でご出産 秋篠宮ご夫妻が医師から“聞かなかったこと” へ続く

2026年9月11日 江森敬治 文春オンライン

美智子さまも「大層心配」…紀子さまは39歳、帝王切開でご出産 秋篠宮ご夫妻が医師から“聞かなかったこと”

 9月11日、秋篠宮妃紀子さまが還暦を迎えられた。紀子さまのお立場を大きく変えた、秋篠宮さまとのご結婚と悠仁さまのご出産。その節目ごとに、どのようなドラマがあったのか。秋篠宮家に詳しく、秋篠宮さまの貴重な肉声をつづった『秋篠宮』(2022年/小学館)などの著書をもつジャーナリストの江森敬治氏が、その歩みを振り返る。(全2回の2回目)

41年ぶりとなる男子の誕生

「ごくろうさんでした」「帰ってまいりました」

 2006年9月6日午前8時27分、悠仁さまが生まれた。身長48.8センチメートル、体重2558グラムの親王さまだった。皇室にとっては秋篠宮さま以来、じつに41年ぶりとなる男子の誕生だった。

 紀子さまは、東京都港区の愛育病院に入院していた。胎盤の一部が子宮口をふさぐ「部分前置胎盤」だったため、予定日より約20日早い帝王切開での出産となった。

 当時39歳、5日後に40歳の誕生日を控えていた紀子さまは、現皇室の最高齢出産となった。

 帝王切開手術は、この日午前8時23分に始まり、同9時7分に終了した。予想外の大量出血などもなく、「母子ともに手術後の経過も順調」で、手術室を出た紀子さまを秋篠宮さまが優しく出迎えた。それが前述したようなやりとりで、「ごくろうさんでした」と、殿下がねぎらうと、紀子さまは「帰ってまいりました」と、明るく答えたのだった。

美智子さまも心配されていた「部分前置胎盤」

「私が初めて子どもを授かった四十数年前、前置胎盤は非常に恐れられていた状態でした。特に当時まだ20代半ばであった私は、お産は太古も今もそう変わるはずはないという思いから、その頃より更に一時代前、母が読んだという、安井修平先生の書かれたお産関係の本1冊を唯一の参考書にしておりましたので、その本で読んだ前置胎盤の怖い記述が思いだされ、大層心配いたしました。現在も危険の可能性こそ変わりませんが、その後の医学の進歩により、安全なお産に導いていただけることを知らされ、安堵いたしました」

 悠仁さま誕生から1カ月余が過ぎた2006年10月20日に72歳の誕生日を迎えた上皇后美智子さまは、その折に発表された文書で、このように綴っている。美智子さまが、母子の状態を、とても心配していたことがよく分かる。

 皇室典範では、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と定められており、女性皇族は天皇になれず、結婚すると皇室を離れることになる。1969年4月18日、秋篠宮さまの妹である黒田清子さんが誕生してから、2001年12月1日、現在の天皇皇后両陛下の長女、敬宮愛子さままで、じつに連続して9人の女性皇族が生まれ、皇位を安定的に継承する上で危機的な状況が続いていた。

 この非常時を救ったのが、悠仁さまだった。

「悠仁さま誕生」第一報が飛び込んできた瞬間

 悠仁さまが生まれた日、私は東京・赤坂のTBSテレビで、紀子さま出産の緊急報道特別番組に出演していた。「悠仁さま誕生」の第一報が番組に飛び込んで来ると、出演者たちは一様に驚き、まるで奇跡が起きたかのような興奮に包まれた。

 紀子さまの実家がある東京・目白では「祝親王ご誕生」の看板や季節外れの鯉のぼりが飾られ、祝賀ムードにあふれた。都心では、「紀子さま男子ご出産」の大見出しが躍る新聞の号外が配られ、道行く会社員たちは奪い合うようにしてそれを読みふけった。

性別は事前に聞かなかった

 9月6日午前、執刀した主治医の中林正雄・愛育病院院長と宮内庁の金沢一郎・皇室医務主管がそろって記者会見し、出産前後の親子3人の様子などを説明した。記者からは、「秋篠宮ご夫妻は事前に性別などの情報をお持ちだったのか?」との質問も上がった。それに対して、以下のような回答だった。

中林院長 性別や障害などの情報は、両殿下ともお知りになりたくない、という話だったので超音波の医師にも伝え、医師団の誰も正確な情報を持っていなかった。

金沢皇室医務主管 両殿下とも単に知りたくないということでなく、どんな状態の子どもであっても、自分たちの子どもだから受け入れたいんだというお気持ちが非常に強い。今までもそうだったし、今回もそうだった。非常に感銘深かったので、お伝えしたい。

 9月12日、「命名の儀」が愛育病院で行われ、新宮さまは「悠仁(ひさひと)」と名付けられた。宮内庁によると、「悠」には「長い、ゆったりとした」という意味があり、「ゆったりとした気持ちで、長く、久しく人生を歩んでいくことを願って」命名されたという。

ご出産に抱かれていた不安

 2006年11月24日、41歳の誕生日を前に、秋篠宮さまが記者会見した。このとき、悠仁さまが生まれてから2カ月半が過ぎていた。記者たちは改めて、出産前後の気持ちやエピソードなどを尋ねた。 その際、紀子さまは抱えていた不安、そして秋篠宮さまへの感謝を語っている。

「宮様も私が入院している間、また入院する前、久しぶりに経験する出産、そして、それに加えて前置胎盤であること、そのような中で不安を持っている私を冷静にまた優しく支えてくださり、必要な医学的な事柄をわかりやすく話してくださり、大変うれしゅうございました」

「家族5人の日々が始まっていることに感慨を覚えます」

 また、秋篠宮さまは次のように語っている。

「私たちにとって男の子というのは今まで経験がないことですので、どのような経緯をたどって成長するのか、分かりません。ただ、基本的には長女、次女と同じように接するつもりでおります。今の段階で言えますのは、元気に育ってくれることを願っているということです」

 そして、紀子さまは、家族との近況などを紹介した。

「悠仁を囲みながら家族でにぎやかに過ごしているとき、10年以上も前、幼い娘たちを夢中になって育てながら仕事をしていた若いころを思い出します。中学生と小学生になりましても、宮さまと私に多くの楽しみと喜びを与えてくれます。そして今、家族5人の日々が始まっていることに感慨を覚えます」

秋篠宮さまが明かしていた紀子さまへの感謝

 あれから20年の歳月が経った。紀子さまに、秋篠宮さまはどのような思いを抱いているのだろうか。私は数年前、直接、尋ねてみたことがある。

「結婚して以来、今日まで、自分勝手で独善的とも思える夫によくついて来てくれたと感謝しています。私と比べれば、子どもたちの養育などではるかに多忙な日々ですが、そのような中で、自分の関心を持ったことを着実に進めているところは、とても立派だと思います」(『秋篠宮』より)

 妻への敬意を込めて、そう明かしてくれたのだった。

2026年9月11日 江森敬治 文春オンライン

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